わだりんぶろぐ2

ポエム集

多様性のパラドックス

前回に続いて多様性について考えてみる。

 

多様性と言えば何となく素晴らしいことのように聞こえるが、実は多様性という概念自体が複雑なパラドックスを抱えていると思う。

 

多様性が至るところは、ひとつ間違えれば均質性である。ある集団の構成要素が非常に偏っているとすれば、それは特異的な集団であると言えよう。しかし、その集団が多様な構成要素を取り入れれば入れるほど、集団としては特異性を失い、他の集団との差異を見出しづらくなる。構成要素の多様性から集団の多様性が一義に導かれるわけではないことに注意しなければならない。

 

また多様性が重んじられるようになった背景には、過度に同質性を求めすぎた社会の反省がある訳だが、かと言って多様なばかりでは社会が立ち行かないことは明白である。多様性を同質性へのアンチテーゼとして捉えている限りは二項対立から抜け出せない。同質性と共存できるものでなければならない。

 

これらの観点から、多様性という言葉を見直す必要があると思う。私の考えではdiversityを多様性と訳さない方が良い。差異性と訳すべきである。個々が差異を抱えながらも同質であることは可能である。同質性と差異性を内包する集団はとてもしなやかで強い。また同様に、同質性と差異性を内包する心もとても強い。

 

これからの時代、差異がもっと着目されると嬉しい。

 

多様性とはなにか

近年大切な価値として語られ始めた多様性だが、多様性ってなに?と改めて考えてみるとよくわからない。

 

多様性がもてはやされるようになったモチベーションは3つあると思う。

 

1つめは、マイノリティの人権問題。

SNSの発展でマイノリティに光が当たり始めたという背景もあろうが、誰もが等しく幸せになれるべき、という価値観は共感を得やすい。昨今の格差社会において一歩間違えば自分も弱者になり得るという危機感が多くの人にあるからだ。

 

2つめは、組織の閉塞に対する危機意識で、特異な人材に変革が期待されている。もっとも建設的なモチベーションとも言えるが、実際は難しい。なぜなら、一般的に多様性はコストでしかない。同じような価値観の人間だけが集まっているほうが、組織は短期的にはうまく回る。しかしそういった同質性の高い組織は、変化に対する耐性が乏しく全滅しやすい。

 

3つめは、あるがままに生きたいと願う人間本来の欲求であり、僕はもっとも包括的で重要な要素だと考える。上述のように、社会が(そして11人の怠慢が)コストの最小化を求めた結果、個々のフラストレーションが最大化してしまっている。世界に一つだけの花に憧れながら、あり得ない、と自分で封印してしまっている。無意識の反抗として、多様性を語っているのではないか。

 

これらをある程度区別したほうがいい。

なぜなら、人間は多様性ばかりを求めているわけではない。ある程度の同質性をみな求めているはず。

と悩んだときに、多様性あるがままで置き換えると理解し易いのではないか。

すべて手放して

夏休み。

私は離島に渡る船の底で横たわっていた。

船は不規則に、しかし心地良くたゆたう。

わずかな月明かりだけを帯びた黒い液体があたかも身体を包んでいるよう。

その黒い液体に私の形が溶けていく。

勝負に負けたことも、怒りに任せて人を責めたことも。

家族、仕事、財産、社会、すべてが深い海の中へ消えゆく。

両手に抱え切れないほどの持ち物をすべて手放したとき、私という生命の価値はどれほどか。

美しく存在できているか。

微睡の中で、綿々と続くエネルギーの連鎖と揺らぎに、些細な生命が同化していく。

あるいはその問いさえ無意味なのか。

船の揺動は母なる地球と共鳴しているようだった。

帰りたくない

旅行の最終日、旅館の部屋の片付けを始めると、子どもがすみっこで目に涙を浮かべる。足が痛いとか、中庭で遊ぼうとか、駄々をこねる。楽しかった旅行がもうすぐ終わりそう。この時間が永遠に続いてほしいのに。そんな気持ち。見ている親も切なくなる。


それだけ楽しんでもらえたのなら、親として嬉しい。

だけど、彼が終わらせたくなかったのは旅行ではない、家族の形だろう。旅の間、家族は常にひとつの課題とひとつの歓楽を共にしてきた。皆が皆を見ていた。それがもうすぐ終わる。またひとりになる。それが悲しかったのではないか。


そう考えると胸が痛む。仕事と家事で手一杯の親。宿題と規律に縛られ抵抗する子。家族はどこに存在しているのだろう。この家に?本当に?


僕も小さい頃、旅行先で似た気持ちになったことがある。小学5年生、夏、長野。帰ればまた受験戦争が始まる。誰も味方はいない。安らげる家はどこにも存在しない。

そんな悲しい思いはもう十分だろう。


誰もがゆっくり生きていけばいい。

帰りたくない

旅行の最終日、旅館の部屋の片付けを始めると、子どもがすみっこで目に涙を浮かべる。足が痛いとか、中庭で遊ぼうとか、駄々をこねる。楽しかった旅行がもうすぐ終わりそう。この時間が永遠に続いてほしいのに。そんな気持ち。見ている親も切なくなる。


それだけ楽しんでもらえたのなら、親として嬉しい。

だけど、彼が終わらせたくなかったのは旅行ではない、家族の形だろう。旅の間、家族は常にひとつの課題とひとつの歓楽を共にしてきた。皆が皆を見ていた。それがもうすぐ終わる。またひとりになる。それが悲しかったのではないか。


そう考えると胸が痛む。仕事と家事で手一杯の親。宿題と規律に縛られ抵抗する子。家族はどこに存在しているのだろう。この家に?本当に?


僕も小さい頃、旅行先で似た気持ちになったことがある。小学5年生、夏、長野。帰ればまた受験戦争が始まる。誰も味方はいない。安らげる家はどこにも存在しない。

そんな悲しい思いはもう十分だろう。


誰もがゆっくり生きていけばいい。

正義と悪

「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?」


河瀬直美さんが東京大学の新入生に贈られた祝辞の一節です。


この祝辞が批判を集めていることに、危機感を覚え、どうしても記事を書きたかったのですが、その夜。

財布を失くしてしまい途方に暮れ、何の期待もなく紛失届を出した交番で、財布が自分の手元に戻ってきた。

僕はこの国の正義と優しさにもっと感謝したほうがいいと気付かされた。


そしてますますわからなくなった。

立場が変われば世界は変わり、価値観は変わる。

何が悪か、何が善か、なんて解らない。


しかし、だからこそ。

何が悪か、何が善か、解らない我々が人を殺めることはやはり悪であり、何が悪か、何が善か、解らない我々が勇気ある発言を正義の名の下に非難することもやはり悪であると思いました。

感染記

コロナに感染した。

引いては寄せる波のように続く熱、仕事の不安、外で遊べず鬱憤が溜まるこども達。

少なからず辛かったけれど、結果的には感染して良かったと思います。


そう思う理由の1つめは、コロナを巡るイデオロギーの戦いがひとまず終結したこと。

理由の2つめは、コロナ感染を経て自分がバージョンアップされたように感じること。


この2年間、急に台頭した全体主義的な価値観に随分苦しめられた。もし自分が感染しなければ、ただ、この世界が嫌いになって終わっていたであろう。感染し、ある意味敗戦したことで、天狗にならずに済んだと思います。社会的な価値観に対し、賛成も反対もせず、その存在を認め、緩やかに自分を変えていくこと。そんな在り方ができるようになったと思います。


また、感染を経て、関係性を当事者の視点でなく、少し外側から眺めることができるようになった。冷めてしまったとも言えるが。その結果、世界に感謝の気持ちを自然と持てるようになった。生かされているという感覚。不思議と生き残りました。


そして、コロナは僕を通過して行かなかった。今も僕の中にコロナが生きていると思います。これからも共生して行くのです。楽しみです。