わだりんぶろぐ2

ポエム集

マイノリティ?

公共の施設における障害者の介助の問題。介助してもらって当然と言うマイノリティと、あなただけに特別にコスト払えませんと言うマジョリティ。まったく議論が噛み合わず虚しくなる。

 

私はというと、後者の意見が正しいように思うけれど、彼らがどんな悲しみを抱えているのかさえ、想像力できず、回答を避けてしまう。

 

近代社会はマイノリティを傍らへ避けて発展してきた。現代、彼らの居場所はますます少なくなっている。社会は優秀な人が作るもの、そうでない人は社会に搾取•維持されるものという構造が出来上がってしまった。維持される者もそれに安住してしまう。豊かさとはそういうことだ。

 

しかし、マジョリティの我々も障害者性を抱えていることを忘れてはならない。明日事故に遭う可能性のことを話しているのではない。優から劣へ並ぶ一直線を想定するならば、先頭に立つ者以外は皆劣等である。その自らの痛みと怠惰に、一人一人が気付かなければならない。

 

強い言葉を吐くのならば。

抱っこ

夕焼けの帰り道

悲しみを抱っこして

楽しかった時間が突然終わり

大人が決めたさようなら

 

悲しみは君の色彩になる

明日の夢になる

だから勇気を持ってさようなら

 

ふたつの胸が重なる

君の悲しみは僕のもの

僕は夕陽に抱っこされて

この道を歩く

悲しい命を生きる

 

勇気を持ってさようなら

ペトレンコ&ベルリンフィル

音楽は久しぶり。ペトレンコ指揮ベルリンフィルを聴いてきました。演目はモーツァルトベルグブラームス

モーツァルトは表現豊か。縦とか意外と合ってないけど、こういう音楽を作るんだという絵がはっきりと共有されている。僕が今まで音楽だと思っていたものは音楽ではなかったのだと思い知らされる。優美さは控えめ、構造をはっきり示すとともに、切迫感溢れるモーツァルト

ベルグは理解が難し過ぎたけど、心に刺さり続ける。大編成でベルリンフィル本気の力強さ、物凄く鋭利な問いかけ。

ブラームスは、ベルグの半分くらいの編成。メインには役不足と心配したけど、圧巻の重厚さ。ロマン派とはとても思えない、苦悩に次ぐ苦悩、ほんの少しの甘美。第二楽章の陰鬱が印象的。しかし決して陰鬱に屈しない。まさに、苦しみ、矛盾、不条理、祈り、すべての人間らしさを抱えて生きていくのだという、強さに心を打たれた。

心の深い所からの涙が止まらない。

ペトレンコ何者?人生3周くらい生きてそう。

アドラーの理想

アドラー心理学の解説書を読み非常に感銘を受けた。すべての人は縦ではなく横の関係にあり対等で、生きているだけで他者に貢献できているという価値観。僕もそのことを理想としている。

例えば、親はこどもに対して支配的であってはいけないと思っている。だけど、仕事が絡むと少しだけその価値観を見失ってしまう。部下が反抗的だと少しだけ腹が立つ。上司と話すとき少しだけ萎縮する。もっとひどい思想も持っていて、うんざりする。高齢者より若者の方が価値があると思っている。障害者を殺した犯人を完全に非難できないでいる。美男美女に注目が集まるのは自然の摂理だと思っている。

自分の中で異なる2つの価値観が対立している。アドラー的価値観と合理的価値観、どちらがほんとうの自分かわからず混乱している。

本書は次のように締め括られる。「すべての人が他者を仲間と見なして、互いに協力しあう世界が、そう簡単に出現するとは思えません。しかし、実現していないから理想なのであって、理想だけがこの現実を変える力を持っているのです。」いつか僕の中の価値観が統一される日が来るといい。

 

アドラー 人生の意味の心理学 (岸見一郎)

持続可能な成長

持続可能な成長ってあり得るのだろうか、と思うのです。それが物質的や経済的な成長を指すのならば。エネルギー、資源、生命、そういった周囲の環境を食い潰して、自らの種が発展する、というのが私たちの成長に対する考え方でした。それはSDGs後も変わっていないのではないでしょうか。

 

CO2の排出を抑えようという取り組みはその象徴的なもので、環境は支配できるという西洋的な価値観の現れです。CO2さえ減らせば温暖化を制御できるという思考はあまりに浅はかで、地球はもっと複雑なバランスの上に成立していると私は思います。自然への畏怖のようなものがなければ、この先地球とうまく付き合っていくことはできないでしょう。

 

持続可能な成長は、物質や経済の成長ではなく、幸福の成長にシフトするべきです。幸福に生きたいというのは誰もが願うことですが、その手段として自然を消費する、物を増やす、金を増やす、そのために人口を増やすのがずっと有効だった。でもその限界が見えてきたわけです。

 

日本では出生率が下がっている。この先、人口が大きく減るだろう。これは幸福に生きたいという人間の本能だと私は思います。幸福の総数=人の総数、で語ることができた時代が終わろうとしている。そのことを誰に教わるともなく察知しているのは私たち自身なのです。政府は今更慌てて付け焼き刃な対策を打とうとしているが、そう悲観することではない。日本は新しい幸福の形を模索するフェーズに、世界に先駆けて入ったのだ。希望に溢れた喜ぶべきことだと僕は思います。

15年ひと昔

いつの間にか歳を取った。

15年ぶりの拠点訪問。入社直後の多感な青年が涙と汗を流した場所。

現場のあんちゃんが駅まで送ってくれた最後の日と、少しも変わらず、澄んだ空が広がっていた。

それが昨日のことだと聞かされても何の違和感もない。

気怠さも、長閑さも、陰鬱さも、部屋の匂いまで、何もかもが連続していた。

増えたのは私の年齢と首の皺だけ。

奇しくもその前日、私の家族の大切な人を見送った。

時の流れは残酷である。

私たちは、そこにある石を右から左へ動かすような仕事を行い、ただただ無意味に死んでゆくのである。

世界は何も変わらない。

しかし、だからこそ命は繋がり、会社は存続し、文化が引き継がれる。

残酷であることは美しいと思う。

第六感

こどもって特殊な能力を持っていると思うんです。

 

宅配の受取りに居合わせた上の子が、クリスマスプレゼントの中身をぴたりと言い当てた。自転車の前に乗った下の子が、後ろの私の心を読んで「おとうさんどうしてドキドキしてるの?」と言った。

思い起こせば色々事例がでてくるのです。

ことに親の考えについては、子の頭の中に明確に映像として描かれているように思います。子に対しては、上辺だけの言葉に何の説得力もないことの証左でもありますね。

 

このテレパシーのような能力は大人になるにつれ弱くなります。しかし失われるわけではありません。視覚や言語による情報が支配的になるため、相対的に重要でなくなるだけです。

例えば、同時に同じ言葉を発してしまうこと、仲良し同士ならあると思いますが、これもテレパシーを使っているはずです。

 

少し話が変わりますが、運というものも確かにあります。

私は研究開発の仕事をしているので明確に感じますが、上手くいく仕事は初めの試験でかならず良い結果が出ます。運のほうから歩み寄って来て、この仕事を続けなさいと言ってくれます。仕事に限らず、私たちの運命はあらかじめ大枠で決まっているようです。運命からの語り掛けに、こどもたちがするように、よく耳を傾け、流れに身を任せることはとても大事だと思います。

 

量子力学を学ぶと気付くはずです。知覚できることは、世界を構成するほんの一部にすぎないのです。誰もがこどもの頃持っていたであろう摩訶不思議な能力を、改めて信じてみても良いのではないでしょうか。